君は何者?

今までも色々とメンタル的になことを書いてきたが

過去のブログとかを見てもどれも堂々巡りな感が否めない。

 

そう、所詮その時に苦しんだことからどう脱出するか

という対処療法しかしていないからだ。

 

やはり、根本的に解決しないとさ

ずっと同じようなことで一喜一憂したりするだけ。

 

やはり、一番大事なのは使命という言い方もできるし

お前は、何者だ?という問いに答えられるようにならんとね。

 

それもサラリーマンです。とか

職業名とかじゃないよ。

 

もっと抽象的なもの。

 

だって仕事もただの手段にしか過ぎないじゃん。

 

だから、例えば

俺はメッセンジャーです。とかね

 

人が生きるのに大切なメッセージを俺の体を使って

皆に届ける使命があります。

 

その為に情報発信したりセミナーしたりしますみたいな。

 

そう、なんというか人生における目的ってやつ。

それが、ピンと来れば手段なんか何でもいいし浮かんでくるし

何よりも自分がぶれないでしょ?

 

俺は今の所、フィクサー(影の支配者)ってのが俺的にあってる気がしてるけどね。

 

それは、コミュニティなのか、プロジェクトなのか

はたまた1対1のことなのかはわからんが、直接的にやったり

ガンガン表立つというよりは、縁の下的に人をいい方向に導くみたいな。

 

参考になりそうなの貼っておくよ。

ameblo.jp

俺は、完全に頭脳型。

 

ameblo.jp

 

【願望と使命の違いについて】
 
願望は、過去からの必然性を証明できない。
使命は、過去からの必然性を証明できる。
 
過去からの必然性とは、
家計や親からの受け継いでるもの、自分の名前、
過去に経験した人生を変えるような出来事や出会いなどなど。
 
  
願望は、がんばってできる感がある。
使命は、全くがんばる必要がなくほんと自然とできる。
 
 
願望は、思った通りになる人が2割、ならない人が8割。
使命は、思ってもないぐらいスゴイことになる人が10割。
 
願望は、それを本当にずっとやっていけるか不安が残る。
使命は、一生それをやっていく確信しかない。
 
 
願望は、時間をかければ描くことができる。
使命は、全てを手放した瞬間に見つかる可能性が高い。
 
願望は、ワクワク感がある。でも現実化しにくい。
使命は、ワクワク感がない。でも実はその先に、願望の世界を超える魂の喜ぶ現実がある。 
(使命に願望が混じってるときはワクワク感がある。
完全に使命だけ削ぎ落とされたときは、あきらめ感の方がある。)
 
 
で、僕を含めほとんどの人は、
「願望を使命と思い込みたい」という願望が働く。
 
これを手放したときは、多少がっかりするけど、
その道をたんたんと突き進めば、
最大限 の喜び、貢献、豊かさに満ちあふれた人生がある。
(それには金銭的豊かさが伴うことも、伴わないこともある)

それも全ては自分のため?

コミュニティなりプロジェクトに参加

要は、人とのつながりなんだ。

そこからしかやる気なんて出ないと書いたが

 

よくよく考えると、そこに入って

触発されることで頑張れるから。

 

というのは、結局自分の人生を楽しく、充実させるためだと

考えると、詰まる所自分の為ともいえるね。

 

少なくとも今俺が言っているのはそのレベルの話だね。

 

走るのにも、一人だとサボれちゃうから

人と約束することでぶちれないからやるとか

話しながらやれば苦なくやれるからっていうのが理由だし。

 

まぁでも最初はそれでええんちゃう?

 

とにもかくにも、そうでもしないと今の俺の人生は全く動きそうにもないし。

 

自分でなんとかしようは、もう捨てることにした。

 

それが、出来ていたらもうどうにかなってるからね。

 

憧れの人に近づく。そういうこと。

新しいものに触れないとヤバい

これは、まじで最近そう思う。

 

ブログ書こうにも、何しようにも刺激がないと

もう書くことが無くなるわけよ。

 

だから、未体験のことをするとか

人と会って話すってことは本当に大事なんだと思える。

 

というか、そもそも価値なんて幻想であるわけで

人生なんて意味もくそもない訳だから

せめて、楽しもうと思ったらもうさこれしかないよね。

 

どんどん、未知なることに頭突っ込んでいかないと

 

自分の為にそんな頑張れないし、それ面白くもないし。

 

周りのやつなんて本当アホばっかりとか思ってほとほと人間なんて

面倒くせーとも思うけど、でもやっぱり人は人と繋がっていたいという

本能があって、それには逆らえないよね。

 

ジョギングとか瞑想も結局、俺みたいなレベルの人間は

自分の意志ではもって2か月しか続かないのだ。

 

やっぱ、人巻き込んでやるとかしてかないとさ。

 

まぁ、時たま受験勉強とかも完全一人でやりたいないしはやれる

って人もいるだろうけど、俺は毛頭無理そうだね。

 

唯一の成功体験である中学受験だって

塾が楽しかったから続けられたところがメチャでかいし。

 

やっぱ、コミュニティ、プロジェクト

人との出会い、新たな経験、そしてその中での自分のレベルアップ

これがすべてか。

 

そんな環境に身を置けたら、そりゃ収入だって能力だって上がる。

まぁ勿論スキルアップするときには個人で淡々とやるってのが大前提だけどさ

でも、それも仲間や誰かのためがなきゃ続かないよ。

 

一時的に借金とか背に腹は代えられない状況で

頑張れる人もいるみたいだけど、大概継続しないでしょそんなの?

 

有難いことに自分はそんな窮地に陥ることはなさそうだから

まぁ。最悪親の介護でもして脛かじれば俺一人くらいの生活はなんとかなる

という精神安定剤を持ちつつ好き勝手やればいいかな~みたいな感じだな

書きなぐり

最近分かったこととして

まぁ改めて感も否めないが自分の為にそんな頑張れないなと。

 

年収がいくらほしいとか、ねーちゃんにもてたいとか

海外に移住したいとかではそんな動かない。

 

原動力は、憧れの人や面白いコミュニティに入る

プロジェクトに参加するとかそういうことだと思う。

 

要は、人とのつながりだという事か。

 

ただ、誰でも彼でもいいという訳では当然ない。

 

というかむしろ、気が合うと思える人は

26年の人生で2人だけということを考えると

世の中の99%以上の人とは気が合わないということだ。

 

基準は、一人でいるよりも楽しいと感じられるかどうか。

 

でも、絶対そういう人達も一定数いるわけで

特にクリエイターと言われる人たちの中には。

 

だから、諦めずにその人らと触れ合える環境に身を置く。

その為の努力なら出来る気がするから。

 

フィクサー、影の支配者として。

今あるものに感謝するという感覚

とかく人は自分にないものに目が行って

今あるものに感謝出来ていない。

 

だから多くの人が幸せになれない。

 

 

なんて、よく言われていて

俺自身も「まぁそうかもな」くらいに思っていて

でもそれは、思考レベルのお話だった。

 

 

しかし、今日、ついさっき

その感覚が腑に落ちたのだった。

 

 

それは、掃除をしていたときの事。

拭き掃除をしている最中に、

 

PCにはいつもラジオ聞かせてくれてサンキュー

トイレにはいつも汚物処理してくれてサンキュー

 

という感情が自然と湧いてきたのである。

 

すると窓にもお前のお蔭で寒さ凌げてるわ

壁にもプライバシー保護サンキューでーす。となる。

 

そう、今まで何とも思ってなかった当たり前に

有難さを感じれるようになったのだ。

 

 

確実に、意識が外ではなく内に向いている感覚。

 

 

 

「おーこれが今あるものに感謝するという事か」

分かり始めた、マイレボリューションと渡辺美里状態に。

 

 

何か瞑想を習慣づけてから、こういう気付きのスピードが

早くなっていて良い感じ。

 

 

ランニングしてても、

「苦しくてもこの歩みを止めなければ、どこまででも辿り着けるんだ」

と感じて、まさに人生もそうなのではないかと。

 

先を見てばっかりだと「まだまだ遠いな」って辛くなるけど

目の前の1歩2歩を繰り返せばいいんだって思えてきたり。

 

 

やっぱ、ランニング、掃除、瞑想は俺の中の三種の神器だと気付く今日この頃。

オードリーANNからの書き殴り

ハッキリ言って、近頃生きるのが全然楽しくない。

 

 

若林さんが

「20代は面白い事が一つもなかった。

一日たりとも戻りたくない。」

 

 

って言ってたけど、分かる気がする。

 

楽しみは、オードリーのANNくらいだ。

夜寝るときは必ず聞いてる。

 

1回目から聞いて、今は269回だ。

 

 

そう言えば、若林さんの

「社会人大学人見知り学部」の完全版が昨日

発売されて早速読んだ。

 

 

単行本未収録分を読み、

以前より言葉に力を感じた。

 

そして、若さんの優しさ、愛みたいなものも深くなっていた。

 

 

前も書いたけど俺なんかが改めていう事じゃないけど

これからのお笑い界背負っていく方だと思う。

 

まだまだ過小評価されている。

 

 

ツチヤタカユキさんも、やっぱスゲーな。

決して他人事とは思えない部分と到底及ばないクレイジーさ。

この熱量を読んでみてほしい。

cakes.mu

 

って、また人の事ばっかだな俺は。

 

誰か、自意識と社会の折り合いのつけ方教えてくれ。

 

自分が、こんなに面倒臭い奴だなんて夢にも思ってなかった。

普通にリーマンやって、結婚して、所帯持ってくらいにイメージしていた。

 

 

そりゃあ、年間3万人自殺するわな。

今や、人身事故だって日常茶飯事で、

「うわぁ、遅れる」とか「死ぬ時まで人に迷惑かけんなよ」

てな感じだもんな。

 

 

でもさ、冷静に考えると

人ひとりが何十年か生きて、自ら命を断とうと決意して

実行するって、スゴイエネルギーじゃない?

 

俺、死ぬ勇気ないもん。

 

そんだけシンドイ想い抱えてた訳じゃん。

 

 

そう考えると、切ない。

 

 

 

震災で亡くなった人の事はメチャ思い遣るのに

人身事故で死んだ人に対してキレる。

 

同じ人間の命なのに。

 

 

まぁそういう矛盾しているのもまた人だもんな。

 

 

あーもう何書いてんのか訳分からなくなってきた。

こうやって、発想が飛びまくって結局今に生きれてねーのかな?

 

どうでもいい。

しばらくは、思うがままに書き殴る事にする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

性(さが)と習慣

やはり、俺にとって書くことは

逃げられない性なのかもしれない。

 

1か月、2か月、まぁ書きたい事もないと

放置していても、また気づいたら書いている。

 

 

ランニング、瞑想、掃除も同様だ。

 

何回中断しようが、やらないと気持ちが悪くなるし

自分の目の前に現われて来る。

 

半ば、あきらめにも似た感情から習慣と化している。

 

こんな事もう何度繰り返したのだろう?

もうこの際開き直って、週一でも良いから定期的に

ブログも更新しようと思う。

 

 

自分の肥大した自意識との格闘にも使えるし。

 

 

というか、本当に商社行って、結婚してみたいな

生き方を楽しく何の疑問もなく出来る奴のメンタリティに興味がある。

 

 

どんな家庭環境で育って、日々何を感じて生きているのだろうか?

 

 

嫉妬もあるけど、それ以上に自分とかけ離れすぎていて

観察をしてみたいという気持ちが強い。

 

俺が生き方に共感する人は大抵、真っ当なレールには乗れず

己の自意識と向き合い、表現して、おまんまを食っている人達だ。

 

具体的な術は分からないけど

俺もそう生きるより他ないと感じている。